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文化イベント詳細

守景・岸駒

江戸時代、加賀藩は幕府に対する主体性の表明として、京都の後水尾天皇を範として戦略的な文化政策を展開しました。こうした文化風土と、江戸と京都との微妙な地理的距離は、金沢にある種の反骨精神を胚胎させる要因となりました。そして今回着目する久隅守景や岸駒が活躍した原動力も、この反骨精神だったと考えることができます。
守景は1610年頃に生まれ1700年頃に没したと推測されます。当時江戸画壇の頂点にあった幕府御用絵師・狩野探幽門下の傑出した画家でしたが、後年何らかの確執があって探幽の門を去りました。こうした守景の動向に、文化で幕府に優越することを文化政策の指針とした加賀藩が注目したことは当然です。そこで加賀藩の文化風土が、守景の“家貧なれどもその志高く、たやすく人の求めに応ずることなし”(『近世畸人伝』1790年)と伝えられた気骨と絶妙に響き合い、守景は加賀の地で画業を開花させることができました。
岸駒の出生については不明な点が多く、加賀藩の史料によれば、12歳の頃に金沢の染物屋に丁稚奉公し、25歳で京へ上ったとされています。この時期、円山応挙から指導を受けた可能性が指摘されています。そして一七八四年に有栖川宮家御学問所の障壁画を描き、有栖川宮の近習となり、雅楽助の名を賜ったことにより、一流の画家としての地位を確立しました。1809年には加賀藩主に招かれ金沢城に障壁画を描き、1838年に約90歳で没するまで、京都や金沢で精力的に活動しました。

日時

令和2年6月20日(土)~7月26日(日)

場所

石川県立美術館

料金

要観覧料

お問い合わせ

石川県立美術館
〒920-0963 石川県金沢市出羽町2-1
[電話番号] 076-231-7580
[FAX] 076-224-9550

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